IT企業でうつ病

IT業界で10年勤務。うつ病2回。勃起不全。只今闘病中でこれからの人生をどう生きていこうか考え中。

「心」のお話

 恋愛すると女性が綺麗になる、というのは「恋」をすることで「女性ホルモン」の分泌が活発になるがゆえで、これも「心の動き」が影響している。


 こういう「恋」などのポジティブな「心のパワー」は認知されているのに、ネガティブな側面は認知されない。というか認知したくない、というのが実際なのかな、と感じている。

 例えば、生まれてから一緒に生活してきた「愛犬」が亡くなっても「忌引」は貰えないだろう。「残念だったな、さ、仕事しろ」といった具合に「人生の中にある何気ないワンイベント」としてカウントされてしまうのではないか。

 人それぞれ育ってきた環境も違えば心の育成度、有り様も多種多様で、「何が」「誰にとって」「心に傷をつける」のかなんてのは千差万別である。

 現行の組織運営では、そういった「ネガティブ」で「トラウマ要因」となる出来事に対応はできない。「非合理であるから」であろう。
 

 当人にとってはいくら「重大かつ落ち込む出来事」であったとしても、そういった「モノ」は組織を運営するうえでは「非合理的」で「邪魔」なモノとされていると感じる。

 この事例は極端であるが、大なり小なり「単一指標」で人を管理するという「弊害」がどんどん出てきているように感じる。

 もっと多様性を包括できる組織運営、社会基盤が必要とされてきている様に思えてならない。

「協調性」は集団の能力を最大化させる要素であって「足の引っ張り合い」で最小化させるものではない

 人間は生まれてから大なり小なり「集団」に所属しながら生きていく。家族、地域、学校、会社...etc

 知人であれ他人であれ「自分以外の誰か」と生きていくことが必要とされる。故に、「和」を乱さないための「協調性」という要素が重要視される。 

 何事も助け合い支えあうのだ、だから「和」を重んじよう、と。

 日本でみられる協調性とは「多数決型」であることがほとんどで、「反対意見」を持っていてもそれを押し殺し多数派の意見を尊重することで「和」が整えられ、「その場」はスムーズに事が進む。

 「如何に集団内での不和を起こさず、集団を生存させるか」

 ということが重要であり、個人の考え、生存は二の次だ。ここで反発しようものなら「村八分」「左遷」といった具合になり、多くの人にとっては「大きなリスク」だと思う。

 このリスクというのは、集団が大きくなればなるほど、利害関係が大きいほど顕著になる。故に、集団活動にとってプラスになるだろう「意見」も「少数派」であれば波風を立てることになってしまうため、黙殺され、封殺される。

 結果的に「足の引っ張り合い」になってしまい、隣左右の人間を信用できず、身の保身だけを考えるような集団と化してしまう。これは脆い。同じ集団に属する人間がお互い何を考えているのかわからず、疑心暗鬼に陥ってしまう。

 こういった現象は社会全体にも及んでいる。決して限られた企業や組織に当てはまる問題では無くなってきている。

 上記でも言及した「個人は二の次」という部分が悪い結果として表面化してきている。「集団」の中で「少数派意見」を持っている人は集団から除外されてしまう。

 意見が違うから、というだけではなく「障害があるから」「人種が違うから」などといった要素で除外するケースも散見される。

 これはもう「集団の生存・維持」を第一優先にした「考え方」または「集団そのもののあり方」が間違っているとしか思えない。

 元来の集団の目的を見つめなおす必要がある。

 「助け合い支えあい共に生きる」

 これを達成するためには、まず「個人」の意見や生き方を主張する必要があるだろう。

「私はこういう考え方を持っている人間で、こういうことができます、できません」

 これがなければ、何人集まっても「文殊の知恵」とはならないでしょう。

 今の時代は、「個」ありきの「集団・集合」であるべきだと思う。もっと自分をオープンにして生きよう。

客観性が失われる鬱病

 100%の「客観性」なんてものは持ち得ないことは知っているが、健康だった頃は自分の変化に対して一定の認識を持てていたように思う。

 しかし、鬱病になると100%「主観的」にしか頭があたらかず、その影響もあり「希死念慮」などの感情に思考が支配され、麻痺し、生きる気力を失う。

 故に久しぶりに会った人に「顔色良くなったね」「話せるようになったね」など「前回会った時との変化」をそれとなく伝えられると嬉しいものだ。

 自分では「全然良くなってないな〜」「相変わらずだな〜」としか思ってない。見た目に関して言えば全く興味がなくなっているため、鏡も見なければヒゲも剃らない。そんな状況の中「前向きな変化」を他人から言われるのは助かる。

 例を上げれば暇がないが、こういうことが病気に対しては良い薬だ。故に、一人きりで完治させられる病気ではないと感じている。

 自分の思考パターンを研究し、それを改善しながら心身を健康に保つことが鬱病を治していく上では大切であり、それにブーストをかけるのが「他人から変化を指摘され、それを自覚すること」であると思う。

 一種の認知療法に似ているのではなかろうか。

 こういう経験があり、最近ではなるべく仲の良い知人友人と会うようにしている。これも大きな変化。これを良い方向につなげて病気を完治させたいと願うばかりである。

ガッガリしたよ by両親からの電話

はい。先日、両親から電話があった。

内容的には、仕事は見つかったのか、結婚はどうするんだ、病気の状態はどうなんだ、と質問攻めをくらい、心配してるの、不安なの、と言われゲンナリしたわけ。

 

んーとりあえず生きてるって事だけに感謝って出来ないものなのかな〜。うつ病って「いつ治るか」なんて不明瞭だし、人生をかけて付合ってく病気なんだけどな〜。そんな中で生きているって、自画自賛で気持ち悪いけど凄いと思うんだけどね。両親はそうでは無いらしい。

 

なんかさ、なんの仕事するとか、それはどういう仕事が良いとか、生活費はどうするんだ、東京にいるから治らないんだ、地元に帰ってきなさい、とかさ、どーでも良いし関係無いと思うんだよね。30歳そこらの大人が考えて選択して生きてこうとしてるんだもの、そりゃあまりにも干渉しすぎで、正直鬱陶しい。仕事が見つかれば仕事するし、生活費が足りなければ公的機関を活用するし、地元に帰りたいと思ったら帰りますよ、そりゃそうでしょうよ。

 

あと、僕には10年以上付き合っている彼女がいて、僕が健康な状態なら結婚も考えているんだけど、病状がまだ良くないことや、経済的な面も考えて先延ばしにしてるんだ。

それは先方の両親も理解していて、むしろ僕の病気を心配してくれているみたいで、大変ありがたくもあるし、安心感もある。

 

彼女は彼女で、「結婚」という形式に拘りはなく、子供を産みたい願望もなく、単に僕といたいからいるのよ、という。肝が据わっているというか、なんというか。いい人と巡り会えたな。と、ただただ感謝である。

 

しかし、先日の電話で母親からこんなことを言われた。

「世間体もあるし、お付き合いも考えなおさないとね」

たぶんこんな感じ。

この期に及んでまで世間体とか言っちゃうのね〜、と愕然とし、あまりのショックに電話を切った後泣いてしまった。

 

いい歳した大人が、自立した大人が、それぞれの人生を生きてきた中で培われた価値観や考え方を元に、今を生きているわけだ。それは誰の人生でもなく、僕の人生である。いくら親だからといって「世間体が〜」とか言われる筋合いは無い。断じて無い。

 

しかも心配している対象は「僕」でもなく「彼女」でもなく「彼女の家族」でもなく「自分たち」の「世間体」である。ということが心理的背景にあることを感じたので、尚更ガッカリしたのである。

 

すなわち、僕が「うつ病」である。ということも結局は「受け入れられていない」ということであろう。だから、「世間体」が出てくる。自分たちを守るために。まあ、「うつ病」である僕と付き合っているのは「負担だ」という認識をしている事自体もうね。。。

 

あ〜やんなっちゃうね〜。だから良くなんないだけどね。いつまでも「異物」「腫れ物扱い」されちゃうわけだからね。そして、守るために実家に帰ってきたらとシレっと提案したりするわけよ。嫌だね〜。

 

逆に彼女や彼女の両親は「病気である」という事も含めて僕を受容してくれているし、気さくに自然体で接してくれる。「ああ、これが自立的な大人の関係性なんだな」と感激したものである。

 

両親世代が生きた時代との変化を読み取れず、感じようともせず、昔ながらの価値観に縛られ「世間体」というキーワードで子供を縛り付ける。「大人」になった「我が子」という認識はなく、「我が子」はいつまで経っても「子供」という認識がコレを招いている一因だろう。

 

「ちゃんと生活できているか不安で」「あなたはまだ子供だから」なんて発言は僕の両親以外の方も子供に向けて言っているケースが多いように思うけれど、乱暴に言うとそれはあなたの問題で、僕の(子供)の問題ではない。要するに信用する器量が無い、自分の子育てに自信が無い、将来に対して不安ばかりを抱いて生きてきた結果なんだろうと思う。

 

自分たちが将来に対して「不安」をベースに生きてきたから、子供に対しても同じような行動、考え、人生観を求めるというなんとも身勝手な行為であると思う。

 

いい大学へ、大企業へ、年金はしっかり払え、貯金しろ、結婚して子供を育てろ・・・etc

 

これからの世の中、これらを満たす事自体がリスクだということにも気がついてない。なぜか?気が付かなくても生きていけるからだよね。公務員だったし、年金はもらえるでしょう。政府も手厚く保護してくれるしね。

 

僕らの世代はそうは行かない。国家もいつ破綻するかもわからない状態。日本では生きていけないかもしれない、目まぐるしく変化する中を生きていかなきゃいけない。そりゃ、いくら親子といえど、全く価値観も考え方も違いますよ。

 

それを前提に話し合いも出来ない。すぐ感情的になる、悲観的になる、不安になる。これではダメだよ。こっちが萎える。理性的な話し合いなんて無理。バカバカしい。

 

なので、せめて放っといて欲しい。とりあえず「生きていれば儲けモン」というスタンスで見守ってて欲しい。四の五の言わず、とやかく言わず。そこはもう「大人」としての関係として。

 

ほんと、ウザい。オレの人生にもう口出しするな。クソが!

 

僕が好きなカウンセラーのツイートを幾つか文末で紹介

 

 

 

どちらも我が家族には無かった概念で、僕が最も欲していたものです。素晴らしい考え方で泣きそうになったわ〜。

 

本日は以上。

ホリエモン(@takapon_jp)近大卒業式スピーチを観て

はい。観ましたよ。近大のホリエモンスピーチ。

近大といえば、マグロ養殖などで数年前から脚光を浴び始めた「異端な大学」という個人的な認識で、今回の卒業式も面白い人選したなと。

 

スピーチを聴いての感想は、「共感」と「感動」だったかな。

 

私自身の話をすれば、そもそも「敷かれたレールを走る」なんて発想は元からなく、いつだって先の見えない世界を生きてきたように思う。

なぜ「敷かれたレールを走る」事が嫌だったのかといえば、家庭環境が影響しているように思う。

私の父は警察官だった。考え方が「公務員思考」であるゆえに、大学いって公務員になって普通の家庭を持ちなさい、と幼少期から言われて育った。でも、それがツマラナイと幼心で思っていた。小さい私にとって「未来」や「将来」とは「ワクワク」と「ドキドキ」が詰まった世界であり、それに対して今から「規定」をされるなんて真っ平ゴメンだった。

 

そして、21歳で大学を辞めてベンチャー企業へ飛び込んだ。

大学を辞めたいことを伝えるため帰省したときに、両親にこう質問をしてみた。

 

「極端な話だけどさ、俺がフェラーリ乗ったり、別荘持ったり、そういう事ができる人間になれると思う?極端で分かりやすく言うとね」

 

「いや、あなたはそんな事は出来ないと思うよ」

 

「そっか。でもね、俺は出来ると思ってるわけ。根拠は無いけど、可能性はあるでしょ?その可能性にトライするために、俺は大学を辞めてベンチャーへ就職したい。だから、この決断を応援して欲しい」

 

と。概ねこういう内容だったと思う。両親は許可してくれた。こうして、目先の事なんて分からない、レールなんて無い世界へ飛び込んだ。予想以上に刺激的で、厳しく、楽しい世界だった。自分で生きるとはこういう事なのか、と痛感した事は記憶にあたらしい。

 

しかし、今、私は「うつ病」である。だから仕事をしたくても出来ない。私が優先的にするべきなのは「治療」だ。そしてそれは「いつ治るかも分からない」という「不安」と常に闘わなければならない。実際に闘っている。

 

ここで大事なのは、過去のアレコレや未来のアレコレを考えすぎて「今を生きていない」という状態に陥らないように気をつけることだ。うつ病患者の多くは「過去を後悔し、未来を悲観し、そして今を滅してしまう」それだと一向に良くならない。

 

「今この瞬間を生きている」という実感。それが「うつ病」には良薬なんだ。そしてこの「実感」こそが、人生を幸せに生きていくための唯一の要因だと信じて日々治療している。

 

そんな中でホリエモンが似たような事をスピーチしていた。彼もまた「瞬間燃焼型」の人生を歩んでいる。

 

私もそうでありたいなと切に願い、今日も治療に励みたい。

「逆コナンくん」状態が鬱病である

 ここ最近調子が良くない。他人と比較したり、普通と比較したりする思考回路が活性化し、無力感に苛まれている。良くなったかと思いきや、こういうふうに症状がぶり返すのは、この病気では常だが、やはり辛い。今までの治療はどこへ??と。果たして治るのか不安であるが、こういう「将来どうなっちゃうの」的な考えはどんどん気持ちを落とす悪因なので、直ぐに断ち切る。

 とりあえず「呼吸」を整える。私が実践しているのは「座禅」。楽な姿勢で息を限界まで吐き、思いっきり息を吸う。これを一定のペースで30分程。そうすると頭の中で渦巻いてた「ネガティブな色々」が意外とスッキリするのである。気持ちも幾分軽くなる。故に、今パソコンに向かっているわけだ。

 「座禅」を終えてから頭に浮かんだ事。それは、「愛されたい欲求がまだまだ強い」状態にあるんだなと感じている。心理学的には「愛情欲求」や「幼児的願望」という用語で説明される事象だ。

 ここで言う「愛されたい」というのは、本来は「親から」であるのだが、これが正常に機能しなかったため、心の愛情メーターがガス欠状態。

見た目は大人、中身は子供、といった「逆コナンくん」状態なのである。

 私の幼少期の記憶をたどると、母親に叱られたり、機嫌悪いという感情から八つ当たりされたり、常に母親の動向に精神を張り巡らせていたように思う。「愛されたなかったのか?」といえば、たぶん「愛されていた」のだろうと思うが、どうもネガティブな記憶ばかりが濃く残っていて、ポジティブな記憶はなかなか引き出せない。一方、祖父や祖母に愛された記憶は鮮明に残っており、今のところそちらの記憶を拠り所にプラスマイナス0の状態を意識的に創りだそうとしている。

 成人後、私は実家を飛び出し上京した。それは「母親」の監視下を一刻も早く離れたい、自分の思うがまま生きたい。といった切実な思いが動機にある。しかし、精神的には上記に書いたように「愛情」を求めている、という自己矛盾に陥っている。それを解消する方法は、昔の記憶を異なった角度から再評価する、愛情を受けたシーンを思い出してネガティブな感情比率を下げていく、などなど実践している最中で、ゆっくりではあるが効果は出てきているように思う。

 我が家はあまり本音での会話が昔から少ない。馬鹿話はあまりないし、なんとなく堅苦しい。それはたぶん母親という「監視員」におびえていたからだろうなと思う。今ではいくぶん家族の雰囲気は良くなってきた。道は長そうだが。

 話を戻すと、鬱病の方々は大なり小なり「愛情」を色々な場面で求めている。それが憎しみや怒り、悲しみ、または八つ当たり、など一種の衝動的な行為として表面化してしまうんだ。自傷行為もその1つ。死にたい=それだけ苦しい!誰か気づいて!愛して!という叫びの裏返しなのだ。

 私も日々そういう叫びと葛藤しながら、苦しみながら過ごしている。いつか「脱・逆コナンくん」を達成して、清々しい毎日を過ごしたいと思っている。

 

迷った時に立ち戻るものは?

 また仕事の話。心理学を勉強していると、仕事をする上での心の変遷や変化にもアンテナを張るようになってくる。最近、友人知人が今の職場を辞めようかな〜といった相談があり、なんで辞めるのか、といった点で共通点があったのでまとめてみようと思う。

「給料や会社の雰囲気、人間関係は悪くない。ただ、会社の方向性が良くわからなくなってきた。」

上記のような理由で結局は辞める、ないしは辞めることを検討し始める人が多いようだ。

もちろん、会社の方向性や方針云々ではなく、今の会社の資本や環境を最大限ドライに活用して身につけられるものは身につけて、転職&キャリアアップ、という働き方をしている人もいる。

しかし、私の周りにはスタートアップ企業やベンチャー企業に勤務している人が多く、勤めている会社の「方針」「方向性」「ビジョン」というものと自分を重ねて働いているケースが多いように思う。

働いていれば日々の業務に忙殺され、また変化が多い特性を持っている企業の仲で目まぐるしく様々なことが発生し、気がついたらアレ?これって会社にとってやる必要あるのかな?目先の売上だけにとらわれてないかな?ってか何のためにこの会社にいるのかな?とどんどん疑問が膨らんでいく。

そこで大切なのは「ビジョン」

様々な疑問や疑念が膨らんだ時に、一旦戻れる「原点」が「ビジョン」である。頭が混乱するときは往々にして、物事を顕微鏡で見ている状態だ。そんなに倍率高めたらそりゃ視野も狭くなるし、一体コレはなんの為にやっているのか?もわからなくなって当然だ。

ゆえに、一旦倍率を下げる。つまりビジョンという大局的な視野に戻ってみることが重要。

「ビジョン」がしっかりしていれば、ああ、なるほど、今の仕事はビジョンに収斂される。または、ビジョンに沿わないからそもそも違う。といった「比較検証」が出来るのだ。

ただし、「ビジョン」が不明瞭な場合はどうだろう?いくら考えても結論は出ず、どちらに転んでも今の仕事は結局会社の為になっているのか?もわからず、在籍理由が薄れていってしまう。

大体こんな流れで、結果的に「辞めようかな〜」ってなっているんじゃないかな、と。

確かに、環境面は快適であったほうがいい、人間関係も良いほうが良い、給料は多いほうがいい。しかし、案外其れ以外のポイントを重要視している、ということを忘れてはいけないと思う。

企業の根っこである「ビジョン」どれだけ重要視してますか?