「協調性」は集団の能力を最大化させる要素であって「足の引っ張り合い」で最小化させるものではない
人間は生まれてから大なり小なり「集団」に所属しながら生きていく。家族、地域、学校、会社...etc
知人であれ他人であれ「自分以外の誰か」と生きていくことが必要とされる。故に、「和」を乱さないための「協調性」という要素が重要視される。
何事も助け合い支えあうのだ、だから「和」を重んじよう、と。
日本でみられる協調性とは「多数決型」であることがほとんどで、「反対意見」を持っていてもそれを押し殺し多数派の意見を尊重することで「和」が整えられ、「その場」はスムーズに事が進む。
「如何に集団内での不和を起こさず、集団を生存させるか」
ということが重要であり、個人の考え、生存は二の次だ。ここで反発しようものなら「村八分」「左遷」といった具合になり、多くの人にとっては「大きなリスク」だと思う。
このリスクというのは、集団が大きくなればなるほど、利害関係が大きいほど顕著になる。故に、集団活動にとってプラスになるだろう「意見」も「少数派」であれば波風を立てることになってしまうため、黙殺され、封殺される。
結果的に「足の引っ張り合い」になってしまい、隣左右の人間を信用できず、身の保身だけを考えるような集団と化してしまう。これは脆い。同じ集団に属する人間がお互い何を考えているのかわからず、疑心暗鬼に陥ってしまう。
こういった現象は社会全体にも及んでいる。決して限られた企業や組織に当てはまる問題では無くなってきている。
上記でも言及した「個人は二の次」という部分が悪い結果として表面化してきている。「集団」の中で「少数派意見」を持っている人は集団から除外されてしまう。
意見が違うから、というだけではなく「障害があるから」「人種が違うから」などといった要素で除外するケースも散見される。
これはもう「集団の生存・維持」を第一優先にした「考え方」または「集団そのもののあり方」が間違っているとしか思えない。
元来の集団の目的を見つめなおす必要がある。
「助け合い支えあい共に生きる」
これを達成するためには、まず「個人」の意見や生き方を主張する必要があるだろう。
「私はこういう考え方を持っている人間で、こういうことができます、できません」
これがなければ、何人集まっても「文殊の知恵」とはならないでしょう。
今の時代は、「個」ありきの「集団・集合」であるべきだと思う。もっと自分をオープンにして生きよう。