IT企業でうつ病

IT業界で10年勤務。うつ病2回。勃起不全。只今闘病中でこれからの人生をどう生きていこうか考え中。

「〜べき」論の多くは心を縛り付ける鎖である。

 鬱病を患っている人の多くは、自分の行動規範が「〜するべき」という「べき論」に支配されているケースが多いように見受けられる。

 あくまで自己統計に基づく感想なので、これが一般的な考えでは無いことは事前にご了承頂きたい。多くは、自己の治療の中で気がついた「べき論」があまりにも多かったため、こういった推論に至っている。

 「べき論」の多くは、外部からもたらされた「根拠が曖昧」な「常識」または「ルール」と言えるようなもので、結果的に「現在世の中に存在するいくつかのマジョリティ」に「属する」という性質をもつ。

 例えば、「結婚するべき(なぜならば、それが幸せな人生モデルだからだ)」「高学歴と呼べる学校にいくべき(なぜならば、それが社会で生きていく上での成功者だからだ)」といった具合だ。また、これらが正しいのか、正しくないのか、いつの時代もあらゆるアンケートや統計を用いて実証しようとする人たちが一定数存在している。

 そして、それらを無意識的に参照し、そこに属せるように育児・教育に「べき論」を注入していく。といった流れが強くなっていくのだろうと感じている。

 というのも、「べき論」が頭の思考回路に組み込まれる過程の多くは、「家庭」「学校」という環境であり、その環境下でタクトを振るっているのは「今までのルールで生きてきた大人」であるから、当然「そのルール」に「子供達を適応」させることで「一般化された幸せや成功」を獲得する「確率」を上げてあげよう、とするからだろう。

 その結果、「あ〜しなさい、こ〜しなさい」という内容の「教育」が増え、そこからはみ出すことは「人生の落第」を決定づける事に等しい「レッテル」を貼られてしまうのだと思う。

 しかし、これは明らかな間違いだ。「諸行無常」とよくいったもので、世の中も人も常に変化の中で成り立っている。昨日の常識は今日の常識とは限らず、つねに変わっていくものだ。そういう中で、固定的要素が強い「べき論」をベースに思考・行動していては、変化に対応していくことは不可能だ。

 常に「べき論」をベースに思考・行動している。ということは、全てがそこに鎖で縛られているようなもので、本当は自分が望んでいない、こうしたい、といった感情や思考まで封殺してしまう。

 これはとても窮屈であり、不自由だ。基本的に変化に対応しながら生きていくことができる力を養うことが「教育」だと考えている私は、現在の「べき論」ベースの教育内容、常識にとても危機感を覚えている。

 人生は「べき論」ではなく「したい論」で構築できるようなマインドセットを私は教わりたかった気がする。(注:したい論、ってなんか変かな・・・)

 この「べき論」からはみ出す事で、多くの人が心を病んでいると思う。はみ出すことでの無力感、無能感、不安感、焦燥感。それらが山積することで生じる心身の異常。極論的に言えば、「べき論」が生み出した負の遺産ではなかろうか。

 これから私は、べき論をなるべく思考から排除し、自らやりたい事、生きたい事をベースに日々の生活で行動をし、生きていこうと強く思うのだ。

 そして、今も同じ病気で苦しむ人達に私の今までの体験や知見を少しでも伝えることで、一歩踏み出す勇気を与えることが出来たら、この病気になった事も無駄では無かったのだと感じることがより出来るのかな、と考えている昨今である。