IT企業でうつ病

IT業界で10年勤務。うつ病2回。勃起不全。只今闘病中でこれからの人生をどう生きていこうか考え中。

「これまでを嘆くよりもこれからを語る」ことが大切

寝たきりの生活から徐々に社会性(働いたり、他人と関わったり)を取り戻す段階にいる私は、その中でどうしても自分の「無力感」「無能感」に苛まれる事がある。

「どうして私はなにもできないのだろうか」「同じ30代の人と比べて何もできないじゃないか」といった感じだ。

昔を振り返り、あんなこともしたし、あれだけの仕事量もさばいてたし、新規事業もやったし、こんなはずでは。。。と思ってしまうほど、頭がまだまだ働かなかったり、手が動かなかったりすることがあり、日々悶々としてしまう。

その悶々とする内容が、「他人との比較」であり「取り戻せない過去との比較」であるから厄介だ。とても健全ではない。過去を美化し、比較しても際限のない他人と比較し、自分を蔑み、卑下する「悶々」だからである。

自分の以外の人間も、多くの苦しみを越えて生きている、努力した結果等しく今を生きている、ということを忘れがちなのだ。

正しい「比較」とは生きている瞬間の比較であり、そこに他者も過去も介在しない。私であれば、昨日よりも今日の一歩。ということであろう。残酷なことを言うようだが、「あの頃の自分」と「今の自分」は別人だと考えた方が良いだろう。

あの頃の自分を病気にしてしまった1つの原因は、「他者と比較することでしか自己承認、自己肯定できない」といった歪んだ考え方が根本にあるということだ。従って、過去の自分に苛まれるというのも同様の理屈で、「別人である過去の自分」と比較することでしか自分の心を満たせなくなってしまっているということなのだ。

年齢を重ねた人ほど、過去を振り返った時のインパクトは大きいだろう。あの頃私は何をやっていたんだ、今の私はなんて情けないグズなのだろうか、なんて具合に、時間が加速度的に重力として増えていき、心にのしかかる。

私も、齢31歳。一般的な社会人として考えると、たぶん年収も能力も相対的に評価すると底辺だろう。

ここで大切なことは「だからどうしたのだ?」と頭のルールを切り替えていくことだ。

こういった状況だからといって、「人生を捨てる」筋合いは無いし、「他人がどう思うのか」というのは「主体的に人生を享受する」うえでは極端な話関係無いのだ。誰に蔑まれようと、卑下されようとも、「自分の人生を生きる」という事に集中するのだ。

また、他人を蔑んだりするような人たちは、自分の人生に集中していないのだ。人生における不満不平を、ある基準において自分より下位に位置する人たちに喚き散らすことで自尊心を保っているのだ。(年収とか学歴とか所属する会社とか)だから、そんな自慰行為に付き合う必要は無い。(私もそういうのは気にするほうなんだけれども…)

自分の過去、他人からの雑音を一度シャットアウトしてみよう。

自分の過去を嘆くばかりで時間を浪費するのではなく、少しずつでもこれからの自分を語るほうが、幸せなんじゃないだろうか。

これは私のような人間だけではなく、全ての人間に当てはまるのではなかろうか。そうすることが、明るい世の中を作っていけるのだと信じている。

うつ病は初めの一歩目で疲れてしまう

ここ最近、アルバイトに勤しんでいる事もあってか、生活にメリハリが出てきている。夜眠れないことも無くなったし、抑うつ状態になる頻度も減ってきた。一日に何回かはあるのだが。

うつ病に関する専門書に触れ合う機会が多い環境でアルバイトをしているため、様々な治療法、その効果、最新のトレンドなどが勝手にインストールされ、どんどんナレッジが蓄積されていくたびに、「高い効果が認めれている治療法があるのに、うつ病に苦しむ人が一向に減る気配が無いのは何故だろうか」ということを考える事が増えてきている。

原因は多々考えられるが、一個人として考えた場合、うつ病の人は踏み出す一歩目で疲れきってしまう」という事があげられると思う。

一歩目を踏み出すにも多大な気力・体力・覚悟を必要とするため「踏み出した一歩目が正解であって欲しい」と切に願っているフシがある。また、投薬治療以外でも効果が高い治療法(認知行動療法など)があることを知らないケースも多いのでは無いだろうか。

しかし、たとえ認知行動療法を知っていたとしても、症状が重い人ほど「他人との関わりあいを避けたい」傾向が強く、これは荒っぽい表現になるけど「生きることに失望しているから」に他ならない。

そういった背景があり、んじゃどうするのよ?というと、「手軽な心地よさ」に手を延ばすのである。

音楽、スピリチュアル、詩、啓発本、宗教…etc

なぜこれらを候補としてあげたかというと、「自分を受け入れてくれている、肯定してくれている、承認されている」というメッセージを多分に含んだものだからだと思う。

「ああ、自分は生きていて良いんだ。この歌は愛に満ち溢れている。この歌を聴いている瞬間だけ生きている実感が持てる」

といった具合に。とてもわかる。痛いほどに。心に良く効くのである。でも「一時的」であることは書き添えておきたい。

簡単に触れられ、一時的であれ病気から開放されている感覚を得ることができるということはとても魅力的なのだ。

しかし、それが本人の病気の治癒に繋がるのかはしっかりと考えたい問題だ。個体差があるものなので、人によっては音楽で治癒するケースもある。また、医学的な根拠は不明である。

歌や詩などに浸っている心地よさを知っているぶん、その心地よさを「治療」に繋げて欲しいと思うのだ。そして、「治療」という第一歩を選んだ時に、本人たちの希望を滅してしまう事のないように、医療業界・カウンセリング業界は頑張って欲しいと切に願うのである。

そして、私自身はうつ病を治した」という良き身近なサンプルになれるよう、これからも生き抜いていこうと思う昨今である。

自信が崩壊してしまった自分と向き合うという困難

 うつ病を患うと、今まで築き上げてきた「自信」がゼロになる。自分自身を全く信用できないし、今まで培ってきた諸々に対しても不信感が強くなり、それが積み重なって「自分の殻に閉じこもる」ようになる。

 例を挙げると、「自分の話し方に自信が無い」⇒「他人となるべく会話しないようにしよう」「今まで身につけたスキルに自信が無い」⇒「もう働くことは出来ないだろう」と、こういった具合にどんどん率先して自分の自信を削っていってしまう。しかも「無意識に」である。

 これは病気と向き合う上では厄介で、「うつ病で苦しんでいる」ことすら「話せない」「打ち明けられない」、結果さらに重症化してしまう。

 基本的にうつ病罹患者は「孤独」に耐える事が1日の大半を占め、それ以外は寝ている、というパターンが多いのではなかろうか。私もそうだったように。

 治療初期の段階では、兎にも角にも「睡眠」。睡眠サイクルを整え、脳の体力を少しでも取り戻すことが求められるのは、この「孤独」の中で浮き出てくる「疑問」に「正しく向き合う」ためだ。

 脳みそに体力が無いと、あることないことネガティブな考えばかりが肥大化し、どんどんどんどん自分を否定し、ドツボにハマってしまうからだ。

 体力があれば、「どうして自分はこう考えてしまうのだろうか?」という事に対して心理療法や認知行動療法などのメソッドを活用することもできるし、カウンセラーに今の状態を打ち上げる気力を出すことが出来る。

 その「ちょっと一歩」がとても大切で難しい。

 一歩を踏み出せれば、それは「自信へ」繋がる。この自信はうつ病罹患者にとっては「一筋の光」に近いほど「切望」しているものであって、本当にありがたい瞬間なのだ。

 「孤独」に耐え、辛い毎日を送っている方々。まず「睡眠」をしっかりる事をオススメしたい。多少投薬しても、その価値は必ずあると痛感している。

 皆様にも一筋の光が指すことを祈っている。

「〜べき」論の多くは心を縛り付ける鎖である。

 鬱病を患っている人の多くは、自分の行動規範が「〜するべき」という「べき論」に支配されているケースが多いように見受けられる。

 あくまで自己統計に基づく感想なので、これが一般的な考えでは無いことは事前にご了承頂きたい。多くは、自己の治療の中で気がついた「べき論」があまりにも多かったため、こういった推論に至っている。

 「べき論」の多くは、外部からもたらされた「根拠が曖昧」な「常識」または「ルール」と言えるようなもので、結果的に「現在世の中に存在するいくつかのマジョリティ」に「属する」という性質をもつ。

 例えば、「結婚するべき(なぜならば、それが幸せな人生モデルだからだ)」「高学歴と呼べる学校にいくべき(なぜならば、それが社会で生きていく上での成功者だからだ)」といった具合だ。また、これらが正しいのか、正しくないのか、いつの時代もあらゆるアンケートや統計を用いて実証しようとする人たちが一定数存在している。

 そして、それらを無意識的に参照し、そこに属せるように育児・教育に「べき論」を注入していく。といった流れが強くなっていくのだろうと感じている。

 というのも、「べき論」が頭の思考回路に組み込まれる過程の多くは、「家庭」「学校」という環境であり、その環境下でタクトを振るっているのは「今までのルールで生きてきた大人」であるから、当然「そのルール」に「子供達を適応」させることで「一般化された幸せや成功」を獲得する「確率」を上げてあげよう、とするからだろう。

 その結果、「あ〜しなさい、こ〜しなさい」という内容の「教育」が増え、そこからはみ出すことは「人生の落第」を決定づける事に等しい「レッテル」を貼られてしまうのだと思う。

 しかし、これは明らかな間違いだ。「諸行無常」とよくいったもので、世の中も人も常に変化の中で成り立っている。昨日の常識は今日の常識とは限らず、つねに変わっていくものだ。そういう中で、固定的要素が強い「べき論」をベースに思考・行動していては、変化に対応していくことは不可能だ。

 常に「べき論」をベースに思考・行動している。ということは、全てがそこに鎖で縛られているようなもので、本当は自分が望んでいない、こうしたい、といった感情や思考まで封殺してしまう。

 これはとても窮屈であり、不自由だ。基本的に変化に対応しながら生きていくことができる力を養うことが「教育」だと考えている私は、現在の「べき論」ベースの教育内容、常識にとても危機感を覚えている。

 人生は「べき論」ではなく「したい論」で構築できるようなマインドセットを私は教わりたかった気がする。(注:したい論、ってなんか変かな・・・)

 この「べき論」からはみ出す事で、多くの人が心を病んでいると思う。はみ出すことでの無力感、無能感、不安感、焦燥感。それらが山積することで生じる心身の異常。極論的に言えば、「べき論」が生み出した負の遺産ではなかろうか。

 これから私は、べき論をなるべく思考から排除し、自らやりたい事、生きたい事をベースに日々の生活で行動をし、生きていこうと強く思うのだ。

 そして、今も同じ病気で苦しむ人達に私の今までの体験や知見を少しでも伝えることで、一歩踏み出す勇気を与えることが出来たら、この病気になった事も無駄では無かったのだと感じることがより出来るのかな、と考えている昨今である。

【心の心電図】空や音によって心の反応を確かめる

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 鬱病になると感情の起伏がなくなり基本的にネガティブの最下層を低空飛行している感覚を持つ。燃料切れで着陸しようにも、着陸場所もなく燃料ギリギリで旋回している様で安心もできず、恐怖感や焦燥感に苛まれ、それをどうすることも出来ない自分に対する無力感で埋め尽くされる。

 しかし、ふいに心のアンテナが反応するタイミングがある。そららを意識できるようになったのか、元々無かったものが病気になったタイミングで発生したのか定かではないが。低空飛行している様な心電図がピクリとなるのだ。

 それは「空」や「音」に触れたタイミング。

 自分は確かに、この2つに触れると心の心電図が反応する。現状から開放されたい、という欲求の現れなのか私の心とって「空」は「自由」の象徴だと認識しているようで、見上げるだけで心がスッとする。東京に来てからというもの、比較的「空」の広い場所に住居を構えていたのはそういった心理もあったのだろう。

 また、幼少期を思い出しても、家のベランダに寝そべって何時間も「空」を飽きずに眺めていた。雲の動き、色の変化を眺めていると「地球が回っている」という事を感じることが出来たし、なにより「包まれている」感覚が私を安心させ、心地よかった。

 そんなわけで、私は「空」が第二の故郷であると言える。

 「音」に関しては多少バラつきというか、より細かな「心の状態」を感じるセンサーになっている気がする。

 今日は「エレキギター」の音が私を「感じさせてくれる」音だった。ある時は「アコギ」だし、ある時は「バイオリン」だったりする。「音」は「波長」であるように、私の心にも「波長」がある。「心の波長」とあうものが、その時に必要としている「音」なんだと思う。

 「音」=「波長」=「Hz」なんて置き換えていくとなんだか味気ないモノに聞こえてきてしまうが、心も体も細胞レベルで「振動」しているわけだ。その点では同類であり、積極的に「音」による「ヒーリング」を取り入れていこうと考えている。

 私の場合は、この2つが心のバロメーターで癒される要素であるだけで、他の人はまた別だろう。ただ、こういったものを1つでも持つ事ができるだけで、鬱病がもたらす様々な症状、孤独感を癒してくれるのならば、この世はなかなか捨てたもんじゃないと思ったりするのである。

 美しい空と音に囲まれたこの地球に、ただただ救われる毎日である。

 

「多様性」を受容しようという風潮は「多様性」ではなく「単一性」を受容しようという風潮である。という話

 昨今、「LGBT」や「障害者」に対する注目がにわかに高まってきており、様々な方面で「多様性」「多様性」という単語が目につく。

 はてさて、この「多様性」っていうのはなんなんだろうか。様々な種類を包括的に表現した単語、というところだろうか。

 しかし、昨今の「多様性」議論の中には、「健常者」「LGBT」「人種」「障害者」といったキーワードが構成要素のメインとなってきている節があり、分かりやすくそれらを持ちだしているのか、単にその範囲での「多様性」なのか甚だ疑問ではある。

 私個人が考える「多様性」は、シンプルに「自分と他人は違うものだ」のみであり、そこに「LGBT」「障害者」といった枠組みは存在していない。

 アル中の人、ひきこもりの人、独身、既婚、無職などなど、あげればキリがない。

 故に、「多様性を受容しよう」という活動自体、結構押し付けがましいな、それって逆に多様性を単一性に変異させてるんじゃなかろうか。など、違和感を感じている次第だ。

 確かに、「LGBT」「障害者」といった枠組みを作り、それらが対峙している問題点は確かにある。しかし、個別にソリューション出来るのはハード面でがメインじゃなかろうか。

 ソフト面=人の心や考え方、の部分はそれこそ「自分と他人は違うもの」という考え方を各々が持たなければ難しい様に思う。

 同調する考え方、同化する考え方、ではなく「独立思考」をしっかりと身につけていきたいものだ。

歩くスピードで勝負するのではなく、「一歩一歩を噛み締めながら生きているか」が大切

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 最近、SNSから意図的に離れている。どうしても外界の状況と自分の状況を「比較」するクセがマダマダ抜けないようで、「どうして自分はこんな状態なんだろう」と自罰的になってしまうためだ。これは治療の妨げになるので、思い切ってシャットアウトするようにしている。

 治療の中でそういった「他人をベースとした自己評価」をチマチマ改善している最中で、あくまで「自分はどうしたいのか、どうありたいのか」を自問自答する日々を送っている。

 実際、世の中は競争で満ち満ちており、他人を蹴落とし、踏み台とし、如何に優位に立つのかを日々考えながら生きている人が多く、何も考えずに生きていると気がついたらその「競争」や「マウンティング」に巻き込まれ、心身ともに消耗してしまう。

 しかし、ここで考えよう。「誰のための人生なのか?」を。他人の目や、他人の置かれている状況ばかりを意識して、「自分に無理な生き方」をしていないだろうか?無理に生きるスピードを早めよう、なんて思ってないだろうか。

 それでは「消耗」していくばかりだ。人生は旅のようであり、小説のようである。一歩一歩、一文字一文字がかみ合わさって素敵なストーリーが完成する。では、その「一歩」は?誰のための一歩だろうか。無論、自分のためだ。

 人によってはゆっくりとした一歩、または早歩きの一歩がある。この場合大切なのは「スピード」ではなく「噛み締めているのか」という点だろう。

 なにか良くわからないけど遠くまで来ちゃった。

 というよりは

 一歩一歩歩きながら周りの変化も楽しんでたらここまで来た。

 という方が、短い人生をより楽しむことが出来るのではないだろうか。

 他人に急かされる事無く、自分のペースで自分が楽しむ一歩一歩を歩んでいきたいものである。